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once 18 10年の距離

***18*** 

暖かな光が静かに佇む店内で、朝子はピアノの調べに耳を傾けた。

「いいお店だね」

「そうだろ? ここなら軽く食事できる。先輩何飲む?」

「えっと、ウーロン茶」

「・・・飲まないの?」

「だって有芯、飲めないでしょう? 車・・・」

「そんなことないよ。車、取りに来てもらうから。・・・もしかして警戒してる?」

戸惑った顔の朝子に、有芯は苦笑した。ステージでは、ピアノとベースが演奏している。

「知らなかったっけ? 俺は他人の女とは寝ない主義だから・・・せっかく何年かぶりに会ったんだから、飲まなきゃもったいないだろ? ・・・もうこれが終わったら、・・・次に会うのはいつになるか分からないし・・・」

「・・・じゃあマティーニ」

朝子はため息をついた。有芯の主義は知っている。彼にはいろんな女が寄って来ていたから、三角関係などのトラブルも多かった。それに懲りている彼は、男のいる女には手出しをしないという鉄則を厳守していた。

そうね、それを知っているからこそ、安心して会いに来れたんだったっけ。これが終わったら、次に会えるのはいつになるか分からない・・・か。

僅かにうつむいた有芯が両手で髪をかき上げると、彼の形の良い耳が見えた。朝子は彼のその昔と変わらないしぐさを、夢でも見ているかのような気持ちで見つめた。彼の向こうで穏やかな時間を形作っているピアノとベースは、朝子に去ったはずだった胸の痛みをチクチクと思い出させる。

有芯は煙草を取り出し、火をつけると朝子にも勧めた。「先輩、吸う?」

「・・・妊娠した時にやめたの」

せつないピアノのメロディーを聞きながら、朝子は左耳に戻ってきたピアスに触れた。さっきのキスが、遠い幻のように思える。

飲み物が目の前に差し出された時、有芯がふと言った。

「先輩、ひょっとして智紀に会ったのか?」

朝子はマティーニを一口含み、ゆっくりと飲み込んだ。「・・・うん」

「何か言ってた?」

「え? ラジオの仕事が決まったって。嬉しそうだったよ」

智紀は現在、地元のラジオ局に勤めている。高校卒業後も演劇一本でずっとやってきた彼にとって、地元で就職という選択は厳しいものだったが、それでもラジオドラマなどに係れるからと、けっこう今の仕事が好きらしい。

「それだけ?」

「・・・有芯が、熊本へ旅行に行くって、言ってた」

朝子は有芯を見て困ったように笑った。「ばらしちゃった・・・」

「・・・それで、もしかして先輩は俺に会うためにここに来たの?」

「半分はそう。もう半分は、本当に羽を伸ばしたかったから」

朝子は寂しそうに笑った。

ひょっとして、旦那とうまくいっていないんじゃ・・・と有芯が思ったとき、朝子の携帯が鳴った。

「ごめんなさい。・・・もしもし・・・い、いちひと~! いい子にしてる? ・・・うん、ママもだよ~。一人に早く会いたいな。おじいちゃんとおばあちゃんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ? ・・・うん、ごはんちゃんと食べた? 歯磨きした? ・・・分かったよ! おやすみ~」

朝子が電話を切ると、有芯は彼女の変わりように吹き出した。「息子さん?」

「うん、かわいいかわいい息子よ。一人っていうの」

「今いくつだっけ?」

「5歳。生意気よぉ~」

有芯は目を細めた。「すっかりママなんだな」

「そうよ。だって、産まれちゃったら、なるしかないじゃない?! ママに」

「そうかぁー」

10年って、あっという間だった気がしたけど、俺たちは変わったんだな・・・。有芯は、自分のウォッカトニックを飲み干した。ピアノがひときわ軽やかに、彼の心を軋ませていた。


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